1月6日は父の命日。亡くなって丸2年、3回忌だった。
盆栽の写真は父のカメラに入ってた最後の写真で、亡くなる2週間ほど前の2018年12月に撮ったもの。これまでそんなたびたび写真撮る方ではなく、このひとつ前の写真が4月なんだけれど、不意に取りたくなったんだろうか…。
父がもし今生きてたら、きっとこのコロナ蔓延の状況やったら、うちらがいるとはいえ、認知症の母と生活するのは辛かったやろなぁ…
うちの父は73歳で、脳血栓で認知症の母を残して亡くなった。いわゆるヒートショックが原因で、典型的な風呂場での「孤独死」にあたる。でも私は孤独死って誰でも起こりうることで、けして「孤独な死」ではない、と思っている。その続きは後に書くとして。
ちょっと生々しい表現もあるかもしれんので、ご注意くださいませ
父の死が発見されたのは、母がショートステイ先の特養から帰宅する日だった1月11日の夜、死亡推定日から5日後だった。その日、施設の人から母の帰宅にノックしても父が家から出てこず、「鍵がかかっていて入れないので一旦帰りますね~」と施設から私と弟に連絡があった。私と弟は仕事中だけれど、私は外出先から父の携帯と固定電話に何度も連絡してみる…が、胸騒ぎがした。弟が奥さんに自宅の様子を見に行っているとのこと。父は家からでてこないし、新聞がたまってたそうだ。弟は万が一のことがあるから、奥さんには中に入らないでいておいてもらって(弟、グッジョブ!)、早めに仕事を終えて実家へ向かってくれた。父を発見した弟から、私に電話があったのが17:00過ぎ。
溜まっていた新聞や聞き込みと検死から、父が亡くなったのは「6日」であることが分かった。なので死亡日は戸籍謄本で「推定」となっている。おそらく風呂場で、即死状態だったようだ。第一発見者の弟曰く、父は、お風呂場の手すりを固く握ったまま、腰を深くかがめて立っていたままだったらしい。(弟は発見後にすぐ私に電話してるんだけど、気が動転して「頭から血がでてて、割れてる」とか実際と違うこと言ってた。「とりあえず、何も触らんと、警察に電話して。私もすぐそっち行くから」というたら、落ち着いて電話してくれてたみたい。)
実は、私はその直前に電話で父と話している。ちょうどその日、父は父の地元から車で3時間かけて帰ってきた日だった。父は泊りで留守をするときは、出発時と帰宅時に必ず私と弟に連絡してきた。「カニ、いっぱい食べさせてもらって、沢山飲んだわ。ほんま良かった。でもなんかえらい肩が痛くて、なんか疲れたわ。こんな疲れたこと初めてやわ。」なんかすごく穏やかに会話したのを覚えている。その電話を切ったあと、父はご近所にお土産を配っていた。ずっとこの団地住まいのご近所さんは私を小さい頃から知っていて、会うとお互い声をかける。下の階のおばちゃんが、「お父さんとその日の夜、話したんよ。お土産持ってきてくれてね。普通に元気に話してはったんやで。」と言いながら、涙を流していた。
私が40~50分後に到着した時には、すでに警察が4~5人来ていた。父はまるで手すりを握って「痛い!」と言っているかの状態で手足も顔も固まったまま、大事なところにタオルだけかけられてタオルをしいた床にあおむけに寝せられていた。警察には、こんなに必要か?というくらい、約3時間ほど聞き取りされた。部署ごとに担当が違うから、同じことを2度も3度も質問された。彼らは家中を引っ掻き回して、そのまま父の遺体だけ引き取って帰っていった。まるで家の中は荒らされたかのようにほったらかし。
呆然としている間もなく、その後すぐに、父が入会してくれていた葬儀屋さんに連絡した。まずそこに連絡するように、前から言われてたから。葬儀屋さんによると、寒波が来ていて急に寒くなった週だったので、父と同じように亡くなった人が多いとのこと。火葬場が混んでいて、葬儀までに3日ほどかかったかな。バタバタしたけれど、考える時間があったからか、割と色々ハッキリ覚えている。母にどう伝えようか、お通夜と葬儀どちらに出そうか…一番迷ったのはこれかな。結局、時間が短いお通夜だけにしようと弟と決め、ショートステイ先に迎えに行った。車の中で父の死を伝えた時は、母は案外あっさりしてた。父の顔を見るまでは、何のことかわからなかったんだろうね。お通夜は、私が付きっ切りで、ちょっと大変だったかな。「お花がきれいね」「誰かの名前書いてるわ~」「あれ、○○さん(伯父)の名前やん」「お父さんの名前や!」などなど、母はず~っと話してた。「お坊さん、禿げてるね」とは言わなくてよかったけど。
母は手続き上、ショートステイ先の特養にそのまま入所することはできなかったけど、その後しばらく「ロングショート」として、入所までずっと滞在させてもらえた。実家は団地だったし、もう誰も戻れないからすぐ退去手続き。その間に、母の介護度が要介護3から要介護5になったこともあって、その半年後には入所できた…という、ありがたいことに全てスムーズに進んでいった。これも全て父のおかげなんだけれど。
今まで、親が死んだら看取るものと思っていた。何か声をかけてあげられるような、ドラマティックなものを想像していたんだけれどね。
何もしてあげれなかった、そこにいれなかった、誰かいたらなんとかなったんだろうか…と、自分を責めてしまうこともある。いまだにある。でも、母がそこに居なくてよかったな、と思う。母がいる間に逝ってしまってたら…ぞっとする。あと、夏じゃなくてよかったと。あと、団地住まいでよかったと。ご近所が顔見知りってホント助かるね。ただね、電気ストーブが付いたままでお水も流れたまま(ちょろちょろだけだったようだけど)だったことは、危なかったな~と思う。
うちの場合は実家が団地だったし、母はショートステイしていたし、私がかならず週1回は行くか、電話もしくはメールしてたから、遅かれ早かれ、誰かが1週間以内には気づいてたと思う。でも世間には数か月後発見される、といった「孤独死」もあるだろう。でも、私はどちらにしても「孤独死」なんて言うもんじゃないと思うのね。マスコミは「孤独死」に対してネガティブな印象をつけようとする。みんな、結局ひとりになるのかもしれないし、ひとりの方が生きやすくてそうしてる人もいるだろうし。私が70歳になる頃は、病院で身内に囲まれて亡くなるよりも、突然死が多くなるかもしれない。だって、老人の数が増えるんだよ。しかも、隣近所の顔も知らないことが当たり前になってたりするし。
もはやいわゆる「孤独死」は誰にでも起こりうること。だからこそ、もっと老人が集団生活できる環境や体制を作るとか(年金や生活保護の代わりに衣食住を保障する制度、働ける人は内職などで小遣い稼いでもらうとか施設で自給自足生活するとか)、市区町村やその地区が中心となって、登録のある(高齢者などには無登録でも可とか)ひとり世帯は最低1ヶ月に1回は連絡を取るしくみを作るとか…
事故などで突然、家族を亡くされた方も辛いだろう。でも事故やコロナ以外でも、人は突然亡くなることが誰にでもある。それが、死亡時にひとりだったからといって「孤独死」って?
ただね、突然死になっても、周囲の大切な人達が右往左往しなくてすむように、ひとりひとり心掛けておくのはすごく重要。父は本当に、周囲を右往左往させることなく、キレイに亡くなった。特に母が認知症になってからは、団地のみんなに色々相談したり、自分にもし何かあったら…てので、私らによく話してくれてた。中学までしか行ってない彼でもできたんやから、皆にできるよ…とは言え、うちは団地住まい、財産も預金しかなく、現金派でクレジットカードは1枚だけ(しかも無理やりポイントカードと抱き合わせで作らされてたこと知ってたし)、なんと戸籍も父の実家にあったままで一度にとれたし。
ちょっとだけ後悔してるのは、実家退去時に実家に在ったものをほとんど処分しちゃったこと。なんか捨てすぎちゃった?まぁ、私も弟も過去に引きずられるタイプではないし、いいか。
父の写真、おそらく退職時かな?早期退職したから58歳かそこらだったと思う。すごく「父」な写真。
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