南部黒人学生の闘争 vol.1 :オーザリン・ルーシー、アラバマ大学への入学が決まったのに…(1956年)

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1954年、アメリカ最高裁の判決で公立高校での分離教育の禁止が決まる(ブラウン判決)。この判決は、黒人にとってまた一つ自由を勝ち取れたかのようにみえたのだけれど、実際は各州の良識に任されることに。結局、差別意識の強い南部では、白人達のさらなる攻撃が。

南部黒人学生の闘争 vol.1(1950年代)

まずは1956年にアラバマ大学の入学が決まった、オーザリン・ルーシー(Autherine Lucy、上の写真の女性)に、攻撃が降りかかる。

The Schoolhouse Door: Segregation’s Last Stand at the University of Alabama

彼女は入学前に、NAACP(National Association for the Advancement of Colored People; 1909年に創設された全国黒人向上協会のこと)の協力で法廷で争って入学を勝ち取ることができたのに、いざ入学となると寮や食堂にも入れない。80kmも離れたバーミンガムから毎日自動車で通わなければならなくなった。

1956年2月3日の第1日目、授業は無事受けることができたけれど、その夜には学長宅前に「大学に黒人をいれるな!!」と燃やされた十字架が。

2Pac
2Pac

「燃やされた十字架」は、クー・クラックス・クラン(KKK; Ku Klux Klan)の印や!

翌日から騒ぎはもっとエスカレート。ルーシーのの登校を阻止しようと、乗ってる自動車がひっくりがえしたり、約500人もの学生が車に石を投げつけたり…と暴徒化。 ルーシーは、警官の護衛付きでやっと家へ帰ることができたようだ。結局、入学3日後にはルーシーの安全と学内の秩序のため(これは建前。大学はルーシーの入学を阻止したかった)に、彼女の登校は当分のあいだ禁止されてしまう。

もちろん、学生の間にはルーシーの味方もいて、約200人の生徒が彼女の復学を求める陳情書にサインをしたようだけれど、チカラの全ては白人社会の州議会にあるから、なんともならない。でもルーシーはこれに負けず、通学停止命令を不当と裁判所に訴えをおこし、入学から1か月後には再入学の権利を勝ち取った。

それでも大学は理由をつけて、ルーシーの再入学を阻止して永久除名扱いに。結局、ルーシーと家族やサポーターたちは安全を考えて、再入学せずにアラバマを離れた。

1988年、アラバマ大学はルーシーの除名を取り消し、ルーシーは晴れて大学へ通えることに。1992年に修士号を取得したという。

もちろんこの事件だけではなく、南部各地でこれに似た事件は続いて起こった。そして、1957年にアイゼンハワー大統領が黒人投票権保護を目的とした、新公民権法を成立することとなる。

2004年掲載

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