NY Times: Yuri Kochiyama, Rights Activist Who Befriended Malcolm X, Dies at 93の日本語訳

Yuri Kochiyama ユリ・コウチヤマ THOUGHT | つれづれ
ALL ENTRIES | すべてTHOUGHT | つれづれ

先日の投稿のユリ・コウチヤマ(Yuri KOCHIYAMA)氏の逝去にちなんで、NY Times 2014年6月4日、Willam Yardle氏による記事を日本語訳してみました。

NAOKO
NAOKO

先日の投稿は↓こちら!

ユリ・コウチヤマ(Yuri KOCHIYAMA)

(photo: http://static01.nyt.com/images/2014/06/05/us/KOCHIYAMA-obit/KOCHIYAMA-obit-superJumbo.jpg)

原文は以下:Yuri Kochiyama, Rights Activist Who Befrended Malcoml X, Dies at 93↓

Yuri Kochiyama, Rights Activist Who Befriended Malcolm X, Dies at 93 (Published 2014)
Mrs. Kochiyama, a Harlem activist who was interned with other Japanese-Americans in World War II, cradled a dying Malcolm X after he was shot.

日本語訳:NAOKO

公民権活動家のユリ・コウチヤマ氏が日曜日(2014年6月1日)、カリフォルニア州バークレーで亡くなった。93歳だった。彼女は意外にもマルコムXと交友関係があり、ブラックナショナリズム運動を牽引していた彼が1965年に銃弾に倒れた時に彼の頭部を支えていたという人物である。

彼女の孫のアケミ・コウチヤマ氏が死亡を確認した。

コウチヤマ氏は、南カリフォルニアに居住していた日本人移民の子(日系2世)として生まれた。彼女は若い頃、差別をよく受けていた。第二次世界大戦の間、彼女は2年間、アーカンソーの日系人収容所で過ごし、ジム・クロウといわれる人種差別を受けるといった苦い経験を味わった。

終戦の数年後、彼女は日系人収容所で出会ったウィリアム・コウチヤマ氏と結婚し、1948年にニューヨークへ移り住んだ。夫妻は12年間、マンハッタンのアッパーウエストサイド、アムステルダムハウスの公営住宅に住み、近隣のほとんどの住民は、黒人やプエルトリコ人だった。その後、ハーレムへ。

1963年10月、コウチヤマ夫人がブルックリンの裁判所で初めてマルコムXに出会った頃には、夫婦で公民権運動に参加していた。ほとんどが若い男性のサポーターに囲まれていたマルコムXに、彼女は近づき、喜びを伝え、握手を求めた。

彼女は1996年のニューヨークタイムズ紙でのインタビューで、こう答えている。「あなたの活動は、すばらしいと思います。でも、いくつか賛同できない部分もあります。」と彼女が話すと、マルコムはそれがどれなのか聞いてきたという。

「人種統合にひどく反対している点です。」

彼は後に彼女と会うことに同意し、1964年までにはコウチヤマ夫妻はマルコムXと親しくなっていた。マルコムXはネイションオブイスラムから離脱しはじめた頃には、全ての人間を受け入れるといった信念を持つようになっていった。彼はアフリカやその他の旅した地域から、コウチヤマ夫妻にハガキを送っている。

その中で、1964年9月27日にクエートから出されたハガキには、こう記されている。「狭い心の人間が作り上げた混乱を学んでから、今なお、旅をして自分の視野を広げることに努めています。マルコムX」

その2月、コウチヤマ夫人はマンハッタンのワシントンハイツにあるオーデュボン・ボールルームの観衆の中で、マルコムXが彼が創設する新しい団体、「アフリカ系アメリカ人統一機構 Organization of Afro-American Unity」についての講演を始めるを待っていた。その時、銃声が響きわたり、彼女はステージに向かって走っていった。

「私はマルコムXめがけて一目散に走っていき、彼の頭を私の膝の上で支えたんです。彼はただ、横たわっていました。息がしづらそうで、一言も話しませんでした。」

彼女が彼を支えているその力強い姿は、1965年3月5日に発行された雑誌「ライフ」のマルコムX暗殺の記事にある写真が添えられていた。

コウチヤマ夫人は、1921年5月19日にマリー・ユリコ・ナカハラとしてカリフォルニア州サンペドロに生まれた。高校では、社交的で、スポーツをしたり学校新聞を書いたりしていた。彼女はインタビューで、1941年12月7日に日本人がパールハーバーを爆撃した少し後に、自分の父親がFBIに抑留されるまでは、政治にはほとんど関心が無かったと言っている。

しかし、魚屋として成功していたナカハラ氏は、1942年1月20日に人質から開放されるまで、数週間にもわたって拷問を受けていて非常に弱っており、その翌日、彼は死亡した。その春までに国中の日系人収容所へ送られた120,000人の日系アメリカ人と同様、家族は日系人収容所へ送られた。

1980年代、コウチヤマ夫妻は抑留された日系アメリカ人への国の賠償を求めた。1988年アメリカ国会は、生存する約6万人の収容者に対して、それぞれ2万ドルを支払う計画を承認した。

彼女の孫であるアケミ氏の他、彼女の娘のオウディー・コウチヤマ−ホルマンと、3人の息子であるエディー、ジミー、トミーや、8人の孫、5人のひ孫が生存している。1970年代には息子のビリー、1989年に娘のアイチを亡くしている。

彼女の夫は1993年に死亡した。日系人で構成された第442連隊戦闘団に所属する前に、アーカンソーで収容されていた。第442連隊はアメリカの戦史の中で、最も称えられた連隊の一つである。

1960年代から70年代には、コウチヤマ夫妻のアパートのソファーは、泊まるところが必要な活動家で埋っていた。その後、コウチヤマ夫人は元ブラックパンサー党員で1981年にフィラデルフィアの警官を殺したとして死刑を宣告された、ラジオジャーナリストであるムミア・アブ・ジャマールを含む、活動家など不当に収監された人々の解放を求めた活動を組織するのを手伝った。2012年、アブジャマールの死刑求刑は、仮釈放なしの無期懲役に減刑された。

コウチヤマ夫人は大学を卒業したことはないが、幅広く書物を読んでいた。火曜日、孫のアケミ氏はコウチヤマ夫人から譲られた、お気に入り記事の収集日誌をはじめて公開した。

「様々な記者や考え方をもつ人々がいます。」文化人類学の博士号を目指しているアケミ・コウチヤマ氏は言った。「エマーソン、キーツ、イェーツ、そしてホセマルティ。政治的な思考家達。そしてマーカス・ガーヴェイ。全てがここにあります。」

コウチヤマ氏は、自分自身で彼女を奮い立たせていた。シアトルのヒップホップグループであるBlue Scholarsの2011年のアルバム「Cinemetropolis」には、彼女についての曲があり、こう繰り返されているー「大人になったら、ユリ・コウチヤマのようになりたい。」

コメント

タイトルとURLをコピーしました